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![[COLUMN] #242 しんでもしなん](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/998bb09c626699dc703f2da1e452f4677a291af7-3131x2083.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
目の前の愛おしき当たり前の日々を零さないよう、僕は毎朝死を想う。 「朝から?重」なんて思うかもしれないが、朝からだ。重いのだ。それと同じように当たり前も重い。 そして眠るときに生を想う。眠れば考えられないからだ。
![[COLUMN] #240 対岸の音楽](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/94e6940a69fc56f9613896eeb580b897f2e2273f-6000x4178.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」 19世紀のイギリスの思想家・美術批評家であるウォルター・ペイターが残した言葉だ。数年前、個人的なプロジェクトとして自分の好きなアーティストをインタビューしてはZineという形で発表していた頃、当時まだデビューしたてだったヒップホップグループDos Monosの荘子itから教えてもらった。 その約1年後、私は突然の思いつきからアートギャラリーで働き始めた。そして、絵画や立体作品など芸術作品に触れれば触れるほど、ウォルター・ペイターの言葉に同意した。
![[COLUMN] #239 「ウフフ」を探して](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/a9b84b8b6658bd0fd86199e2461c47e534353d8d-6048x4024.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
このところ、少し時間があるときは散歩をしてみている。 そうすると、車や電車での移動では目に映ることがないであろう、ほんの些細な街のかけらに目がいくものだ。 穴の空いたフェンスをロープで修理した跡、ハート型にひしゃげた配管、無理やり書き換えられた看板、文字みたいな形をして地面に落ちた糸。
![[COLUMN] #238 点と点をまっすぐ結ぶべからず](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/e40f78f8e75bc087d8929e4bf032a053895a35cb-6048x4024.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
Googleマップは自宅から最寄駅までの道のりを徒歩8分と示している。 僕はこの移動にできるだけ12分以上かけたいと思っており、実際にそうしようとしている。 三度寝してしまった朝や、時間にうるさい人(幸い僕のまわりには少ない)との待ち合わせを控えているとき、襟付きシャツかロンTかを迷いまくった日などは、アラフォーにしては異常に発達している速筋群を生かし、徒歩8分どころか徒走4分で駆け抜けることもある。しかし、そういった緊急時を除いて、1本隣の路地に入ってみたり、ときどき立ち止まったり、帰りなどは家の前を通り過ぎてみたりして、できるだけ自宅と駅を最短距離で結ばないようにしている。 目的地まで最短で向かうことは合理的で正しいとされるが、それに終始していると、こじれた僕の自意識は「移動している」のではなく「移動させられている」と感じはじめる。 大袈裟に言うと、ミシェル・フーコーがいう社会や規律に管理される「従順な身体」へ自分を差し出しているような感覚になってしまうのだ(モチロンだいぶ大袈裟に言うてる)。
![[COLUMN] #237 効率の隙間に](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/a007e18a05ea36c121e7bed45d9798c652da7e52-3072x2048.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
私たちはいつの間にか、無駄を省くことに最適化されてしまう。 効率性を求められる日常の中で、かつて持っていたはずの自由奔放な感性がどこかへ消えてしまったような、そんな静かな寂しさをずっと抱えていた。そんな私にあの頃の感覚を思い出させてくれたのは、初めて訪れた富山だった。 到着した朝の富山駅は人が少なくて、ただそれだけなのに妙に呼吸がしやすかった。知人の案内で巡った二日間の記憶は、今でも鮮明に思い出せるほど濃密だ。
![[COLUMN] #236 ありきたりな変化](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/51adb94b2bda063dfc8c361c44cb66af398219b8-5992x3988.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
今年のゴールデンウィークは、滋賀で過ごした。祖父に会うために毎年必ず訪れる場所ではあるが、知人がいるわけではない。滋賀は泊まるための拠点であり、一人で時間を過ごすときは京都へ出かけることが多かった。 京都は歩いていて楽しい街だ。様々な名所があるから飽きないし、夜は気になった酒場で一杯ひっかけて、酔い覚ましに鴨川沿いを歩くだけでも楽しい。一方、滋賀には琵琶湖以外あまり何もない。(もちろん、私が知らないだけなのだが。) しかし、30歳を超えたあたりから、滋賀で過ごす時間が少しずつ増えてきた。理由は単純で、琵琶湖がとにかく気持ちいいからだ。ひらたく言えば、歳を重ねた私は、自然に癒やされるようになったのだと思う。実際、いつの間にか月よりも太陽を好み、ダンスよりもランニングを好むようになっている。自分でも驚くくらい月並みな変化だ。
![[COLUMN] #235 「たばこ」と誰に言ったのか](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/e85270dd6b3c0533bc7d34e5b7f4aaa3a5385b8c-5000x3327.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
14時を過ぎたコンビニだった。 近頃のコンビニはだいぶセルフレジが多い。 まばらな客に対して店員は、昼のラッシュで乱れた棚や欠品した商品を補充していた。
![[COLUMN] #234 海外ドラマだったらシーズンいくつ?](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/7882c8b3f01f8802973bee921b36649c15385dd9-2726x1867.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
最近ふと思う。人は出会うべき時に出会うべくして出会うのだと。 突然だが仕事を辞めて今月からワーキングホリデーでフランスへ行くことにした。 周りに話すと必ず「どうして?」と理由を聞かれる。理由はたくさんある。海外で一人で暮らしてみたい。外国語を話せるようになりたい。ヨーロッパ中を旅したい。……あとは「パリに住んでた」って言いたいから。 でも、意外と聞かれないのが「キッカケ」だった。
![[COLUMN] #233 さよなら、ソーシャル](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/7ba2622e1499671e4eb1aeb6e70fc17a6d2da784-1538x1023.png?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
僕は人と話すのが好きだ。ほぼ毎日人と関わる生活をしている。 けれどときどき、あえて物理的にソーシャルから離れるときがある。 ここでいう“ソーシャル”は、SNSのことじゃなくて、人と会うこと、人と話すこと、誰かと時間を共有すること。
![[COLUMN] #232 祖母の〈生活-文脈〉](https://cdn.sanity.io/images/le7z07rc/staging/0a14c9248d49b6614d185800f88edbd1ce697138-3072x2048.jpg?w=3840&q=50&fit=clip&auto=format)
〈生活-文脈〉は、打越正行著の『沖縄社会論 ——周縁と暴力(筑摩書房、2025)』を読んでいて出会った言葉だ。今に続くこれまでの生活の中で形成された、わたしたち個々がこの世のあらゆるやりとりを理解する際に依存している文脈だそうだ。マーケティングや学術調査・分析、教育分野などで、個人のとある行動の背景をその人の固有の物語として理解しようと試みるアイデアとして、口にされているらしい。 この言葉を知って私の頭に浮かんだのは、大阪に住む祖母と過ごした大学3年のひと夏だった。 2022年初夏、わたしは当時家に住まわせてもらっていた祖母との同居生活に限界が来ていた。一緒に暮らしていて投げかけられる言葉第1位が結婚、その後に、女はこう、男はこうがつづく。「あるべき姿」の化身のような祖母。お互いの幸せの定義が全く違うので、わたしはこういうことがしたいんだと伝えても「そんな“普通“じゃない人生でほんとに幸せになれるの?」という疑問を呼び起こしてしまうようだった。飲み込んだ言葉が内に溜まっていって、1ヶ月が経った頃には顔を合わせるのもつらくなってしまったのだけど、学問の力を借りながら事態は好転していく。