COLUMN #237 効率の隙間に

私たちはいつの間にか、無駄を省くことに最適化されてしまう。
効率性を求められる日常の中で、かつて持っていたはずの自由奔放な感性がどこかへ消えてしまったような、そんな静かな寂しさをずっと抱えていた。そんな私にあの頃の感覚を思い出させてくれたのは、初めて訪れた富山だった。
到着した朝の富山駅は人が少なくて、ただそれだけなのに妙に呼吸がしやすかった。知人の案内で巡った二日間の記憶は、今でも鮮明に思い出せるほど濃密だ。
道を歩けば職人さんの働く姿が見える、木彫り職人の街・井波。人生で初めて食べた回らないお寿司。東京事変の楽曲の着想にもなったという老舗和菓子屋。富山の食材をふんだんに使った海沿いのピザ屋。創業100年以上の鋳物メーカーの工場。そして一見物静かなソムリエが、気分が乗るとDJと化すワインバー。ここでは書ききれないほどの固有の温度に触れるたび、私の中の何かが少しずつ解きほぐされていった。
なかでも強く心が揺さぶられたのは、ガラス作家・Peter Ivyさんの場所だった。
彼の家と作品が並ぶギャラリーはひとつづきになっていて、ガラスの障子でゆるやかに区切られているだけの空間。ギャラリーに並ぶ作品たちは、そこから垣間見える彼の暮らしの中で実際に使われている。私が訪れた時、ピーターさんはダイニングのソファで気持ちよさそうに昼寝をしていた。さらに工房に足を踏み入れると、窯の中で燃える火の音と器具が触れ合う小さな金属音、それと人の呼吸の音だけが響いていた。緊張感はあるのに不思議と居心地は悪くない。
そして幸運なことに、ピーターさんの制作風景を見ることができた。彼は助手の方と阿吽の呼吸で流れるように作品を作っていく。熱されたガラスは生きものみたいに一瞬で形を変え、その変化に合わせて二人の動きが寸分の狂いもなく噛み合っていく。まるでそこだけ別の生態系みたいだった。
生活の延長に作品があり、作品の延長にまた生活がある。そこには「暮らし」と「仕事」が切り離されることなく存在していた。
ピーターさんが生活している場所も、仕事をしている場所も、すべてがひとつの作品のように美しかった。むしろ、彼自身が作品そのものだった。
生き様が作品になっているその姿への尊敬と感動、そして憧れか嫉妬かわからない渦のような感情が湧き上がる。それと同時に、外に出したい言葉や表現が歪なまま溢れてくるのを感じた。
懐かしい感覚だった。あの頃のちょっと面倒くさくて尖りたがりなポエジー。
「タイパ」という言葉ではこぼれ落ちてしまうような感動が、この世界には絶対にある。均一じゃないもの、時間がかかるもの、そして人の癖や温度が残るもの。富山には効率に追われて手放しかけていた何かを取り戻せる、圧倒的な余白が広がっていた。
そして置き去りにしていた感覚が、静かに戻ってくるのを感じた。
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