INTERVIEW We Work Here case #31 「自分自身の輪郭が歪むような作品。“毒”の中にある豊かさとは」

MIDORI.so永田町にあるライブラリーベットに滞在し、自身のプロジェクトを行う“Creators in Residence”。今回滞在したアーティストは、撮影者と被写体の関係性やアイデンティティの曖昧さを映像によって表現する百瀬文さん。彼女が突き詰めて来たテーマを中心に、どのような経緯を経て映像作品という1つの形に落とし込むのか。そしてその映像を通して表現したいメッセージを聞いてみた。
[ Interview / Text / Photo ] Yuko Nakayama
[ Edit ] Miho Koshiba
アーティストとして、主に映像制作をしています。もともとは自分のパフォーマンスを記録する手段としてビデオを使い始めましたが、次第に自分の身体を使って何かを表現したり、自分と他者とのコミュニケーションの間に生じる関係性やアイデンティティが気になるようになりました。コミュニケーションというものは一義的なものではなく、実は人間の行為や表情の中には複数のことが同時に起こっているんです。あらゆるコミュニケーションの意味を表現するための手法として、映像が1番適していると考えています。

現在は映像アーティスト(もしくは映像作家)として活動する百瀬さんだが、10代の頃に思い描いていた未来は、映像の世界ではなく絵描きの世界だった。
絵描きを目指して美大の油科に進学したものの、自分がコントロールできる絵しか描けない時期が訪れ、絵を描いていても全てが予定調和で優等生的な絵しか描けませんでした。木枠があり、布を張り、絵の具を塗ったら、それはもう絵画である、というような「絵画」が持つ制度的な枠組みと自分の絵に対する実感がうまく接続できず、だんだんと辛い気持ちになっていきました。
どうしていいか分からなくなり、自分の身体でできることはないだろうかと新たな道を探していた時に、たまたまパフォーマンスの先生のゼミで1日1個面白いことをするというアイディア出しの機会がありました。2階からとても細いストローで牛乳を垂らして渦を描きながら落ちる様子を口で飲むというパフォーマンスをやってみたのですが、身体はその状況をコントロールできず、何かしらの負荷をかけることで人の身体が翻弄されるということ事体に面白みを見出しました。
パフォーマンスの映像を撮り始め、身体のままならさに面白さを見出していたが、百瀬さんの興味の矛先は、次第に他者とのコミュニケーション、人と分かり合うことにさらに変化していった。
大学の修了制作は、自身の個展を通して知り合ったろう者の男性にインタビューするというものでした(「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」)。彼と出会ったことで、自分の映像作品が耳の聞こえない人に届くという可能性について今まで考えたことがないことに気づかされました。当然今まで制作していた映像作品には音が含まれていたので、果たして聞こえる人と耳が聞こえない人の経験は同じ経験なのかということが気になり始めました。そして、私たちは何を共有できて、何を共有できていないのかということ自体に興味が湧きました。私が修了制作の作品で扱いたかったのは、障害者の障害という問題ではなくて、むしろコミュニケーションがいかに不確かな土台の上に成り立っているのかということでした。
作品のテーマは唇の形を扱いました。例えば「こんにちは」と私たちは声を発していますが、母音の形が同じ「とんにちは」と発したとしても、彼には「こんにちは」と届く。つまり「声」というものが音によって作られているという認識自体が、耳が聞こえる人中心主義の価値観ということです。だから、声を発することやコミュニケーションをすること自体が持っている表現の幅を広げるために、自分の作品のテーマでは手話など異なる言語を扱うことが重要だと考えました。手話は伝えたい感情をダイレクトに伝える感覚器官であり、同時に手自体が持っている交感するための器官であることが面白いです。そこには意味を伝える役割以上に、そこからこぼれ落ちる思いがあると思っていて、私は映像を通してそれをすくいあげたいと思っています。
日々生きていく中で百瀬さんの研ぎ澄まされた感覚、視線はあらゆる場所に向けられ、そこで得た気づきをもとに作品は形作られていく。そして、2017年をきっかけに徐々に自身が感じる様々な抑圧を作品を通じて表現することで、昇華させていった。
2017年にACC(Asian Cultural Council)という非営利の財団から助成金を得て半年間NYにいく機会がありました。母国語ではない言葉で話す環境を目前にして、やはり声を出せる人はある種それだけで特権的な立場にいるということを肌で感じました。色々な声を発したいのに発せられないレイヤーのようなものがあり、自分がある種マイノリティな立場に置かれた時にこそ、誰でも声を出せるわけではないということを痛感しました。当然私より辛い立場で声を出せない人たちもいるし、声を出せない人たちが相手に何かを訴える手段は「眼差し」しかなく、相手を見つめることなんだと改めて考えさせられました。コミュニケーションの問題という点では今までのテーマと通底しているけれど、その声になる手前で溢れ出てくる「眼差し」に着目し、2019年「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」という作品を作り上げました。
今までの作品は構造的でコンセプトが言語化され、ロジカルに既存の男性が作っていた美術史にアクセスしやすいような作品を作ってきました。徐々にそういった自分に違和感を感じるようになり、ありのままの自分を表現するために、作品を成り立たせるためのアリバイとして作っていた部分を手放してみることにしました。ジェンダーの問題にも関心を持ち始めのも、自分が受けてきた色々な種類の抑圧、それは少なからず私が女性であるからこそ感じた抑圧もあるんですが、作品を通じてその抑圧を表現することで昇華していきました。抑圧を昇華するために獣姦をテーマに扱った「山羊を抱く/貧しき文法」では、戦時中にヤギが兵士たちの性の処理対象として使われていたという都市伝説のような話としばしば植民地の女性が同じように扱われてしまう問題を組み合わせて、動物と人間の女性が悲しみを共有することができないかという作品を作りました。自分自身や誰かが感じてきた抑圧を作品にすることで他者と共有可能なものになり、過去とも未来とも繋がる。そこが大切なプロセスだと感じました。

2021年3月上旬に「鍼を打つ」というパフォーマンスを実施した。今回はどのようなテーマを軸とした作品なのか。
今回のテーマは鍼師と体験者の関係性で、2人の人間が1つの単位となってその場を作るという形式です。そもそも医療という行為は人の身体にかなりダイレクトにコミットする行為で、その信頼関係はどのように成り立っているのかがとても興味深かった。医療の発展を考えると、人と人が作る関係性が自動化されていくプロセスでもあると思うんですよね。例えば、「ここが痛い」と言ったら、「あなたはここが悪いです」と言って、適切な薬を出すというチャート化されている現在の一般的な医療のプロセスがある一方で、おそらく初期の医療というものはまず患者を看るところから始まっていたと思うんです。患者の声を聞き、患者の表面にあるものを眺め、関係性を築いた上で何かを行うという、目の前の身体を眼差すということがあったと思うんです。
鍼の面白いところは、例えば胃が痛いと言った場合、一見胃とは関係のない腕の一部分に鍼を打つという因果関係の分からなさです。そこには分かりやすく記号化された身体ではない別の身体を看る目があり、打たれる側からすれば「なんでここに打つんだろう」と不安になる一方で、自分の身体の認識自体が瓦解していく経験を他者と共有した時に、強制的にその人を信頼しなけれならないという気持ちが生まれると思っていいます。そこで相手を信じ、自分の身体を預けるというプロセスに自覚的になってみたり、自分の身体は自分で所有している感覚はあるけれど、自分自身の身体を本当に把握できているのかと考えさせられる。コロナ禍でずっと同じようなサイクルで日々が回っていると、植物のような存在となり、自分の身体の把握の仕方がぼやけるような感覚があります。そういう抽象化された身体にある具体的な感覚を取り戻す時に、鍼の痛みというものが直接的でいいなと思いました。そして、自分の身体を自分も分かっていないことを改めて確かめてみたかったという経緯もあります。

百瀬さんにとって、「表現する」とは何だろうか。
作品というものについて考える時に思い出すことは、マルセル・モースが書いた「贈与論」という書籍の中にある、ドイツ語でギフトという語源は毒という意味を持ち、私たちが普段発するギフトという言葉の中にはすでに毒というものが内包されているということです。作品を見るという経験自体は何かをもらっているとも言えるんですが、同時に「お前はこの世界に何を果たすんだ?」と言われている気分にもなります。そういう緊張感のある関係を作品と結べた時こそ、豊かな経験だと思うんです。癒されるだけが作品の良さではなくて、ある種居心地の悪いような、自分自身の輪郭が歪むような経験が私の好きな作品経験です。また、私はこの世界に何を返せるんだろうかということをとても考えてきました。「返す」というのは社会貢献ではなく、自分が見ていた世界は今まで何だったんだろうと価値観の見直しを迫ったり、自分自身の形を変えられる、変えさせられるような経験を渡すことだと考えています。それは怖い経験でもあり、傷ついたりするかもしれないですが、そういう事を含めてギフトなんだと思います。
大学4年生の頃から現在に至るまで約10年間、百瀬さんはカメラのフィルム越しにしか収めきれないある瞬間を収めてきた。今後の作品の方向性について、どんなことを考えているのか。
最近は子供を堕ろすために摂取される堕胎薬のリサーチをしています。コロナ禍の状況で小、中学生の妊娠が増えましたが、未だに緊急避妊具がなかなか日本で認可されない状況があります。一方でポーランドでは、堕胎することを法律で禁じられたニュースが報じられました。結局のところコロナのような未曾有の事態が起きた時でも国家が管理するのは子宮なんだと思ったんです。つまり国の出生率に関わってくる問題が生じると、まず女性の身体をコントロールするということと、自分が今現在コロナ禍で感じている抑圧とを絡めながら、何かしらの物語が作れればと思っています。アプローチとしては今までと違うかもしれないですが、具体的なモチーフから作品を制作するということをやってみたいと思っています。

MIDORI.soとは?
現在住んでいる家は東京なんですけど、具体的な制作をする場所としてMIDORI.soに決めたことで、自分のやるべきことが毎日分かることが良いと感じています。家で制作していると制作と生活の境目がぼやけてしまいます。1人でいると自分の輪郭を自分で決めて苦み、なかなか自分が考えている枠から出ていけないんですが、毎日全く違う業種の人が自分の知らない世界の中で働いていることが居心地が良かったです。距離感もベタベタすることもなくメンバーのみなさんが淡々とそれぞれの仕事をしている。当然ですが世界には色々なことをやっている人が存在し、その中で私のようなアーティストもいる。それが等価に並んでいる感じが、友人でもなく家族でもない「隣人」という空気感と繋がって素敵だなと思いました。
AYA MOMOSE 百瀬文
Artist
1988年東京都生まれ。アーティスト。パフォーマンスを記録するための方法としてビデオを用いはじめ、撮影者と被写体のあいだの不均衡性を映像内で再考させる試みを行う。近年の主な個展に「サンプルボイス」(横浜美術館アートギャラリー1、2014年)、主なグループ展に「戦争画STUDIES」(東京都美術館ギャラリーB、2015年)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋――日本と韓国の作家たち」(国立新美術館、韓国国立現代美術館、2015-16年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)などがある。2020年には自身の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」や遠藤麻衣との共作展「新水晶宮」を開催、セクシュアリティやジェンダーへの問いを深めている。
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