INTERVIEW We Work Here case#23 “また食べたいと思ってもらえるようなお弁当を作り続ける”

仕事を通して自らを表現していかなければ、世間から個性を認識されない。生み出す商品やサービスを通して、自分にしかない人間味を滲み出していけば淘汰されることはない。会社に属すこともなく一人で商いをしていくために、「私」の商品やサービスをお客さんに愛してもらう。その要となる姿勢を彼女は働く中で自然と身につけてきた。
7年間福岡でビーガンカフェを経営していた安藤ちほさんは、現在は東京で店舗のないお弁当屋maru kichenを営む。料理をすること以上に彼女が大切にしていることはお客さんの喜んだ顔や笑った顔。そのために美味しいお弁当を作り続けている。彼女がお弁当屋になった物語とお弁当に込める思いとは。みどり荘では毎週ランチ会が行われており、そのランチケータリングを担当する一人、安藤ちほさんにインタビューをした。
[ Interview / Text / Photo ]Yuko Nakayama
[ Edit ]Miho Koshiba, Moe Ishibashi
「お弁当屋さんをしています。映画や雑誌の撮影用のロケ弁などを作ってお届けしたり、今は知り合いのインテリアデザイナーの工房でお弁当を販売しています。前までは天王洲のファーマーズマーケットで、知り合いの九州の農家DONI FARMさんなどから送ってもらった野菜の販売をしていました。私の肩書きは作り手、伝え手。青山ファーマーズマーケットのように本当は農家さんが直接お野菜などを販売する方がいいとは思うですけれど、実際に九州から農家さんが来るとなると大変。だから自分が伝え役になって代わりにお米やお野菜を販売したり、お弁当にして伝えたい」

福岡県久留米市に生まれ、昔から食べることは好きだったが、作ることは大の苦手。商業高校を卒業後ふとしたきっかけで地元の調理学校に進む。それでもなお、料理への目覚めはなかなか訪れず、学校では洗い場担当を自ら担っていた。
「18歳の時までお湯を注ぐだけのカップラーメンは作れたんですけれど、袋のラーメンは作れなかったし、料理は熱いから怖いというのでしなかった。お腹が空いたら妹にお願いして作ってもらったりしていました。実家が寿司屋ということもあり飲食店の環境に育った。食べることは好きだけれど、作ることには興味がなかったです。ある時、チャーハンを作ってみたら真っ黒焦げの炭のチャーハンができて、これは大変だと」
「勉強もできなかったので、推薦入学以外は考えていませんでした。先生から調理学校なら誰でも受かるという話を聞き、受けてみたら受かってしまいそのまま福岡の調理学校に行くことにしました。それでも料理には興味が持てず、学校では洗い場担当。一人暮らしだったのでホテルと居酒屋と寿司屋のバイトを3つ掛け持ちしていました。その頃からお客さんと話すことが楽しくて接客に興味を持ち始めました」
卒業後は先生の勧めで実家の寿司屋を継ぐため、ある寿司屋に板前として就職したものの、甲殻アレルギーが発症し断念。休みの日によく足を運んでいたカフェで働き始め、お店のオーナーに憧れを抱くようになる。お店の経営をうまく回しながら、お菓子教室を開きお菓子の先生として振る舞うオーナーの姿を見て、いつかは自分のお店を持ってみたいという気持ちが日に日に増していった。その矢先、身体に不調が現れる。
「甘いものが大好きで、ケーキを食べ過ぎたせいか急に湿疹が出ました。病院からもらった薬を飲めば収まるけれど、辞めたらまた湿疹が出る。顔が腫れてお客さんの前にも出れなくなり、モチベーションも下がりお休みを取りました。玄米菜食という食事法に出会ってから、毎日玄米を食べるようになり腫れがすっと引いたんです。カフェに戻ろうと思ったものの、また湿疹が出てしまうかもしれない。お店に戻りたいという気持ちはあったんですが、そこの料理やお菓子は私の身体には合わないとわかっていたので、自分でお店を開こうと決めました」
「これをしようと思ったら、性格的に止められない。銀行に企画書を提出してお金を借り、物件を探して、ここでやりたいと思うところが見つかった。妹と一緒にプレートとマフィン、ケーキなどを作るsoeur cafe(スールカフェ)というビーガンカフェを始めました。カフェで使う野菜はいいものを使いたかったので、休みの日は農家さんのところに行き土地を見て話す。そして良いと思ったら、そこの野菜を使う。お客さんにちゃんとそれを説明をして、いいものを食べているという気持ちになってもらう。でもお店の場所が田舎だったせいか、とても暇でした。最初の頃はバイトを5個掛け持ちしながらお店のやりくりをして、妹の結婚を機に久留米駅から近い川沿いのとても素敵なところに移転したら、気が良かったのか急に満席になるようになりました」

カフェを7年経営した後、シェフである旦那さんの仕事で東京に行くことになる。2、3年で帰るという予定だったので、その限られた時間の中で自分ができることは一体何かと考えた時に、お店を開くのではなく、お弁当屋をしようと決めていた。人気だったカフェも後腐れなくクローズした。しかし東京は未開拓の土地。顔の知らない人がいる土地にやって来た彼女は飲食店で働き始める。その一つが今はなき代官山バードというサンドイッチ屋。東京の入り口を見つけた彼女の周りには少しずつ知っている顔が増えていく。
「自分の弁当屋さんの名前はmaru kitchenと決めていました。ご縁を大切にしたいからmaru。だけどmaru kitchenをいつからどういう風に始めたらいいかわからなくて、バードの店長に相談して定休日を使って、お弁当とプレートを売り始めました。だんだんと代官山周りの人たちに知ってもらえるようになった。バードが閉まるとなった時にバードのオーナーにキッチンカーでお弁当屋をやらないかと誘われたんですけれど、バードで自分のお弁当を出したら何かが違うと感じた。maru kichenのお弁当ではなく、そこのお弁当になってしまうと思いお断りをしました。それからは、代官山にいた頃に知り合ったチャイ屋さんに天王洲のTYハーバーを紹介してもらい、平日働く人たちに向けてお弁当を売り始め、また少しずつ自分のお弁当を知ってもらえるようになりました」
「自分のお弁当に自信があるかというと、正直ないです。オーダーを受けたら一個一個作るのに必死。毎日必死だから先のことは考えていなくて、、、一生東京にいるんだったらすでにお店をやっていると思う。福岡でお店をしていたから、お客さんが帰って来てくれる場所があることはすごくいいことだと分かっている。でも今は自分の店舗がない分、お弁当を作ってお客さんに届けることができる」

福岡では地元の農家さんの野菜を使ったビーガンプレートが多くの人々の胃袋を掴んでいたはず。そして上京してからは自分のお店を持たずとも、同じようにお弁当屋として人々の胃袋を満たすために奔走する。Tifoさんがお弁当屋さんにこだわる理由とは何か。
「ばあちゃんのご飯が大好きでした。お母さんの料理の味は覚えていないけれど、ばあちゃんはいつも茶色いおかずを作ってくれて、全部美味しかった。肉じゃがとかがめ煮とか。ある時ばあちゃんが実家の目の前のスナックが店を閉めたのを見て、『ちほちゃんお弁当屋さんをしようよ』と言ってくれたんです。でもその時はばあちゃんと一緒にやるのが恥ずかしくてできないと言ってしまった。それからいっときしてばあちゃんは亡くなりましたが、マルシェのイベントでお弁当を出しませんかというお誘が来ました。やったことはないけれど楽しそうだと思ってやってみたら、一回出店しただけで大繁盛になりスールカフェ=お弁当屋となった。おばあちゃんがやりたかったと言っていたお弁当を一緒にできなかったから、私が代わりにお弁当をずっと作り続けようと思ったんです」
「ばあちゃんの家に行く理由は、会いたいからというよりはばあちゃんのご飯が食べたかったから。ばあちゃんにはまた食べたいと思ってもらうようなおもてなしがあった。結局ばあちゃんは私に来てもらいたいがために一生懸命作る。私はばあちゃんのご飯が食べたくて食べたくて行く。そんな風にまたお客さんに来てもらうために一回で終わりのお弁当ではなくて、また食べたいと思ってもらえるようなお弁当を作り続けたいと思っています」

Tifoさんのお弁当はいつもボリューム満点。大好きだったおばあちゃんが作っていたであろうどこか懐かしい味わいの煮物、炒め物、揚げ物。そして彼女のセンスによって散りばめられた色とりどりの野菜が、お弁当箱を開けた時の「美味しそう」という気持ちを一層膨らませてくれる。お弁当の見た目や味わいもそうだが、彼女の気取らない、たまにお惚けな一面を見せる隙ある雰囲気が、買いに来る人々に安心感を与え、また会いたいと思わせてくれるのであろう。そんな彼女にとって働くとは何か。
「自分が楽しいと思うことをして、人を楽しませる、そして自分も楽しむこと。人と話したり変なポーズをして人を笑わせたり、喜んでもらうことが楽しい。昔はお笑い芸人になりたかった頃もあったんですけれど、人前に出ると手汗がすごくて恥ずかしがり屋なのでやめました。あとは辛いと思うことはしない。自分を活かしてくれるのはいいけれど、利用されるのは嫌です」
「常連さんとは仲良くしていますが、一人一人のお客さんに変わらず男性も女性も年齢も関係なく、ちゃんと接するようにしています。お弁当を作るときも時間がない中で、なるべく予約をもらっいる人の顔を思い浮かべながら、こういう風に言いながら食べるんだろうなって想像し、心を込めて作ります」

maru kichenのmaruはご縁の円と話すTifoさんはその言葉の通り、ご縁を大切にしてきた。東京に来てからたくさんの知り合いや友人ができ、仕事に結びつけてくれたと語る彼女。現在は予定が変わり福岡に帰る時期がまだわからないと言う。お弁当ビジネスが軌道に乗っているTifoさんは今後どんなことをしていきたいと考えているのか。
「今の時期、テイクアウトの弁当をやっている人たちがいっぱいいますけれど、そういう人たちのお弁当をもっと自分の力で売れるように、多くの人に食べてもらえるように一緒に告知をしたり力になりたい。余ったりするお弁当を見ると心苦しいって、自分も経験をしてきたからよく分かるんです」
「私の夢は、自分のキッチンカーを買って旅する道の駅を作ることです。野菜やお弁当だけでなく、作家さんのアクセサリーや服、小物を販売しながら、作家さんたちの思いを伝えていきたい。今は東京にいますけれど、山口百恵がマイクを置いて去るみように、包丁と弁当を置いたらみんなから『やめないで、行かないで』となるようになりたい。今はまだ中途半端な気がします。今日を精一杯生きているから、もう少し余裕を作らなければなと思っています」

最後にTifoさんにとってみどり荘とは?
「みんなが家族みたい。同じ釜の飯を食べるように、一緒のご飯を食べている。ランチ会のケータリングでみどり荘に行くときはいつもリラックスしています」

Tifo (Tiho Ando)
作り手 伝え手
Cooker and Communicator
福岡県久留米市出身。実家は寿司屋で、飲食店の環境で育つ。2009年から2017年まで 福岡県久留米市で vegan cafe「soeur cafe」をopen。 2018年秋より東京、福岡を拠点にお弁当屋さん 「maru kitchen」として活動。ご縁を大切にしたいという想いからのmaru。 地元の生産者と東京に住む消費者を繋ぐために八百屋としても活動している。
https://www.instagram.com/marukitchen_tifo/
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