COLUMN #25 we work here

言葉に触れる
子供の頃から本を真面目に読むような子ではなかった。母親は時に絵本を、辞書を、ハードカバーの文庫本を与えてくれたが、それよりも当時の私は少女漫画に夢中で漫画ほどの活字にしか慣れ親しんでこなかった。とは言え、中学校の国語の授業で私の読書感想文を先生がクラスみんなの前で匿名で読み上げてくれたときは、内心恥ずかしい気持ちを抱きつつも、嬉しさに駆られて隠れながら相当ニヤついていたし、その頃から私感を言葉で表現することの楽しさを見出していた記憶が微かに蘇る。
20代前半まで使っていた実家の勉強机には、10代の自分のありとあらゆる感情が記されたノートが並べられ、時どき眺めては15年ほど前の自分を少し思い出したりする。今更そのノートを読み返す気はさらさらないが、目には見えないけれど、そこに確実に存在する自分の感情や感覚を言葉に落とし込むことが好きだった。大学時代は授業を時たまさぼっては、大学生にしては生意気なモレスキンの黒い大きなノートに自分の感情を整理するためにペンを走らせ、言葉に残すという行為が自分自身を肯定し続けていた気がする。就職活動がうまくいかない頃は、家に引きこもりがちで村上春樹の小説を読み漁って、彼の言葉が織りなす不思議な世界観が表現された一文や登場人物の印象的なセリフをノートに書き残すことで、ふとした時にそのお気に入りの言葉の世界が現実と向き合えていない自分を鼓舞していた気がする。2年間の会社員時代を経て1年間アメリカポートランドに語学留学した頃は、何ものにも囚われない開放感と新しい人種、文化に触れたことによって溢れ出る喜怒哀楽の感情を言葉に残したいと思い、15章ほどのエッセイをzineにまとめた。
今はMIDORI.soのコミュニティ・オーガナイザーとして働くなかで、文章好きが昂じてインタビュー記事を書き続けてもう3年が経った。自分の感情や感覚をむき出しに表現する文章とは異なり、インタビューした相手が話した言葉を読み手に伝わりやすく構築、編集していく作業は、得意か不得意かと言ったら得意ではない。それに加えてインタビューはある意味でナマモノに近いので、文字起こしをしながら自分の質疑応答のやりとりを聞くたびに、過去の自分を反省し勉強させられてばかりだ。しかしながら、言葉に残すという行為はやはり昔から好きであり、相手のストーリーを言葉にまとめた時に見える働く意味や生き方が少しでも垣間見えると嬉しくて、言葉に残すことを誇りに思いながら記事にしたためている。小さな頃から知らず知らずのうちに言葉というものに私は取り憑かれ、何かを表現したいときの感情や感覚は状況によって様々だが、いつも私のそばには言葉があったし、これからもそばにあり続けてくれるものなんだと思っている。
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