COLUMN #95 KESHIKI

夜10時過ぎ、店じまいをした高級ブランド店が立ち並ぶ通り沿い。ある店のショーウィンドウに飾られた生け花が、一際存在感を放っていた。いつだったかその存在を友人に教えられてから、少し遠回りをしてでもその店の前を通ることが習慣になっていった。今週はどんな花が生けられているんだろうかと仕事終わりに考えながら歩く夜道が好きだった。昼間は人通りが多いその通りも夜になれば静けさが訪れ、誰にも見向きされることなく、ライトに照らされた花を独り占めしている特別感が私の心を躍らせた。
花の生け方は、果てしないほど組み合わせがある。色や種類はもちろん、茎の長さ、枝ぶりなど、微々たる差で花を取り巻く空気感は全く異なってくる。太陽に向かって伸び伸びと成長をし続ける野生さではなく「美しい」の基準をもとに人為的に生けられた花の美しさに心が吸い寄せられていく感覚がある。ちょうどその頃、花好きが昂じて生花を習い始めたこともあってか、その静かな夜の花々はより一層私の目を奪っていった。
極端な話をすると、花が有っても無くても誰も困ることはない。まして、花はいつかは枯れて朽ちていく生物。人間が生きていく上で必然性が問われない花を、ショーウィンドウのマネキン人形が纏う服を引き立てるために、時間と労力とお金を投じて空間に宿す。その粋な姿勢が何よりも尊く、ショーウィンドウ越しに美意識とはこういうことだよと教えられている気がした。
しかし、そんな景色もある年の4月から突如姿を消し、代わりに洒落たオブジェが飾られるようになった。しばらくそのショーウィンドウを覗きにいったが、また元の景色に戻ることはなかった。組織のお金の使い方、つまりは価値の見出し方が変わってしまったのだと自分を納得させるしかなかった。
諸行無常という言葉の通り、ずっと同じであり続けるものは存在しない。それでも人の美意識によって表現されたものが、景色を作り出し、そこに居る人々の心に生きる潤いを与える。自分の住む家、働く場所に対しても美しさとは何かという問いを持ち続けたい。ショーウィンドウの光の中で生けられていたあの夜の花が残像のように蘇る度に、自分の美意識に対する感覚がくすぐられる。
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