COLUMN #83 Nothing is Permanent

Topic: ColumnWritten by Saburo Tanaka
2023/3/31
Nothing is Permanent

休みの日には古い酒場を訪れる。馬鹿の一つ覚えのように。イカしたシブい方面の酒場を目指して、世田谷区に住んでいるにも関わらず、JKが原宿に行くくらいの頻度でフラッと墨田区や江東区に繰り出す。

洒落たイタリアンや上質なナチュールワインにうつつを抜かすことなく、真摯にマグロや煮込みで瓶を呑り続けた甲斐あって、まわりの人間から酒場バカと認識されることに成功したいま、呑み屋についての質問を受けるようになった。その中でも、たびたび問われるのが1番好きな酒場だ。この世には数々の名店が存在する。僕のような戯けがそれに甲乙をつけるのは100万杯早いが、圧倒的に特別な酒場が1軒思い浮かぶ。

その酒場は台東区日本堤、労働者の街山谷にあった。1998年に刊行された酒場愛好家の手引書「下町酒場巡礼」の表紙を飾ったその酒場は名を「大林」といい、創業は戦後にまで遡る。

しばしば古典酒場には独自のルールがあるが、大林のそれはローカルルールなどという生ぬるいものではない。2軒目以降の入店禁止、団体の入店禁止、店内写真撮影禁止、スマホを出すことさえ禁止、コロナ禍にあってもマスク着用禁止。静かなる飲食以外はだいたい禁止だ。大林の暖簾をくぐりたければこれらを遵守するのみ。その場を支配する店主に認められなければ、例えそれがトム・クルーズであっても退店を命じられる。

僕個人としては、数々の呑み手から語り継がれてきたその存在は随分と前から知ってはいたが、黒帯は巻けないまでも手前の茶帯に年季と呼べるものがいくらか入るまでは訪問すべきでないと考えていた。そして僕が初めて大林を訪れることができたのは、その帯にほのかに味が出てきたことを感じた昨年の秋であった。

南千住駅から一本道を10分ほど歩くと、いぶし銀のオーラを放った木造建築が姿を現した。シブさを煮しめたような木製の引き戸を開けた時の感覚はこれまでの何とも比較ができない。打ちっぱなしの床にはちりひとつ落ちておらず、ヴィンテージの日本刀のように隅々まで磨き上げられている。高い格子天井と使い込まれた無垢板のカウンター、その奥には高齢には見えるが圧倒的な存在感の大黒柱が口を真一文字に結んで立っていた。おそらく常連であろう数人の先客たちは静かに杯を傾けている。店側が作り出す空気感に客たちが呼応し、そこにしかあり得ない空間をつくり出す。乾燥した肌が痛みを感じるほどピンと張り巡らされた静寂と清潔と緊張。僕自身勉強させてもらうつもりで、その風情に身を預けてただただ静かに呑んだ。

本物の酒場に美味しい安いは軽すぎる。一見すると厳しすぎる制約たちは、当たり前に酒を酒として呑める場でありたいという店主の願いから派生した枝葉のようなものなのかもしれない。心穏やかに酒と向き合い、一切の喧騒から離れゆったりと流れる極上の空気に身を浸す。この令和の世にあってそんな至福のときを愉しめたことに感謝と尊敬の念を抱くほかなかった。このような場所は他にはない。

その酒場は台東区日本堤、労働者の街山谷にあった。2022年の年末、最終営業日を終え、寡黙な店主はほとんど誰にも告げることなく「永い間ありがとうございました。」と書いた張り紙だけを残しひっそりと店を畳んだ。風のうわさによるとどうやら体が悪かったらしい。初訪問を果たしたすぐ翌月に再訪問することはできたが、3度目の訪問は決して敵わないこととなった。

短い間でしたが、ありがとうございました。本当にお疲れ様でした。

春は出会いと別れの季節である。

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