COLUMN #173 自得其楽 -ジトクソノタノシミ-

ものごとについて考え始めて抜け出せなくなることがある。ぼんやりと日常の中でヒントを探してテキトーに解釈して満足する。そんな悪癖がある。
アートとは何か、学生時代はよく友人と議論していた。「アートは創作に重きを置き、対してデザインは商売に重きを置いている」。当時の自分はそう言ってみたけど納得のいくものではなかった。知れば知るほど反例が出てくる。どこかの漫画にも「ピカソはスーパー営業マン」みたいなことが書いてあった。音楽だって文学だって建築だって売るために作ったらアートではなくなる。そんなことは全然ない。
日本人は印象派が好きらしい。私も例に漏れず印象派展は好んで行っていた。印象派の誕生は当時のパリを困惑させた。批評家たちからは認められず、制作途中の絵なんて言われてしまっていたようだ。ヨーロッパでは絵画の種類によってヒエラルキーがあった。「歴史画」が一番すごい。次いで「肖像画」「風俗画」、そして最下層に「風景画」「静物画」。ヨーロッパは主体が人間。そして自然な姿をそのまま描くことはタブー視さえされていた。だから自然の光を追求した印象派や作品は大きな混乱をもたらしたのかもしれない。彼らは「自然」を嫌う。生まれたままの姿や、ただ風景を描くことさえも。ということは自然ではなく人が手を加えたものを「アート」と呼ぶのかもしれない。アートの語源はラテン語のars。技術、工芸、学問とか要するに人が生み出すもの。アートが切り離したものは自然。アートとは「人間が主体的に作ったものすべてである」と解釈した。
そんなことを考えてる時に出会ってしまった。盆栽。それは自然界にある美しい造形を鉢の中で再現する。時代を重ねた幹肌、雪の重みで曲がった枝、地面をしっかりと掴む根。力強さや、逞しさ、時には儚さを重ねる。それでいて人為的な仕立ては下品とされる。なんだかヨーロッパ的なアートの観点とまるで違う。あくまでリスペクトするのは自然なのだ。だけど今やヨーロッパでは美術品として人気を博している。そういえば印象派がパリで市民権を得たタイミングはジャポニズムと呼ばれる日本に影響を受けた美術品が流行った時期と重なると聞いたことがある。今は日本の工芸がヨーロッパ美術の価値観を変えている最中なのかもしれない。
中国で生まれた盆景は1000年以上前に日本に伝わり盆栽として独自発展をした。盆栽を仕上げるには10年20年、いや100年以上かかるものもある。それを1000年以上も繰り返してきた。自然の中にあるいくつもの美を咀嚼して仕立てる。植物相手なので思い通りにはいかない。
先日、古典中国語で「自得其楽」という言葉があると知った。楽しいこと、嬉しいこと、いいことは自分の中にある、自分で生み出せるという意味らしい。私のくだらない休日に名前をつけてもらった気分だ。ところで、MIDORI.soから「盆栽のイベントをやってほしい」とお誘いをいただいた。仲良くしている盆栽家の方と盆栽の展示と販売、そして盆栽教室をやることにした。この日に名前をつけるとしたら「自得其楽 -ジトクソノタノシミ-」しかない。
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