COLUMN #147 感受性の水やりについて

感受性とは道を歩いていて、あまい香りが鼻をかすめた時に連れられていくと、梔子が咲いていると気づくことであり、何か重要な小さいものごとや細部を見逃さないこと、ではないだろうか。
私の中では感受性が生きている時「今日食べたいのはカオマンガイだ」みたいな、埋もれてしまいそうな大量の情報に抗うピンポイントな自己欲求センサーが尖っている。
それがわからなくなる時は危ない気がするのだ。
ここ数ヶ月感受性となると、ことあるごとに反芻してしまうことばがある。
それは一編の詩である。
深呼吸をして、読んでみてほしい。
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自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
茨木のり子
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茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」は極めて愛のある優しいことばで成り立っている。
叱咤しているような、表面に本当に相手を思って発する人間のことばがそこにある。
そんなことばは、すうーっと中に入ってきて浮遊し続ける。美しいことばだ。
すぐに未来のことばかりを考え、今を忘れ、不満を漏らし、つまらないと待ちぼうけする。
感受性への「水やり」を忘れてしまうのだ。そうして最も簡単にパサパサになっていく。
憂鬱な気持ちを携えたまま「水やり」をサボるのだが、自ら「水をやる」よりもそのほうがイージーなのだ。日常を見渡せば、「水」なるものはちいさくとも無数に転がっているのに。
わたしが乾いたとき、わたしは彼女のことばに会いにいく。
そうして静かにまた「水やり」を始める。あなたは「水やり」してますか。
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