COLUMN #107 年収と心臓

「富士山に登ると年収が三倍になるらしい」その友人の一言から始まりました。最初から3,776メートルの山への登山は、流石に大変なのではないか。ビビり症な私たちはネットの知恵と体力の恐れから、低山からまずは登り始めることにしました。ベーシックに高尾山から陣馬山、バカ程長い道のりだからと名付けられたバカ尾根、大菩薩嶺、荒涼な八ヶ岳と麓の苔の森、天狗岳、地元の安達太良山や那須岳、少しづつハードな山、高い山へと挑戦していきました。登山をしていることを話すと「大変そうだ」とか、「どんな服装をしたらいいか分からない」などハードルが高いという印象の話をよく聞きます。確かに高い山にもなると天気の都合や岩場などの危険性も高まります。低い山だとそうではない、とは言いきれる訳ではありませんが比較的イージーであるとは言えます。山も登り方次第。気軽に登れると余裕もでてきます。余裕は登る人それぞれのモチベーションや身体的疲労感などを顕著に表します。
私には登山仲間が二人いて、いつも三人で山を登っています。それぞれが仕事の事や家族の事、恋人の事にいつぞの山の事、通りすがる登山者の事など余裕があればあるほど底なし沼の様に永遠と尽きることのない話をしながら歩いています。休憩には各自が持ってきたカップ麺やおにぎりを食べます。さらに、羊羹や饅頭にチョコなど、甘くて高カロリーな食べ物を歩きながらいただきます。山ではいかに荷物を少なくして軽くするかが体力温存の鍵となります。故に食べれる物もなるべく小さくて軽い物を選ぶ必要があります。しかし、山登りの友人達は皆グルメなので毎回〇〇屋の饅頭だとか、お土産のフィナンシェだとかそういう普段でも食べる事のない美味しいご褒美を栄養補給としてお裾分けしてくれます。それが遠足のおやつ交換の様で一つの楽しみになっています。今回は何を持っていけばみんなを「あっ」と言わせられるか。それが私たちの余裕の作り方とも言えるでしょう。そういう様な具合の山友と登っています。
食べ物の話ばかりじゃないかと思われましたね。しかし自然の中で生きていくには食べ物がより貴重になってくるので仕方がないのです。食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べれる環境ではない自然界。次の目的地を目指しながら持てるものだけを食べて前へ進んでいく。食べたい時に食べたくとも、今ここでこれを食べたら後で食べれなくなってしまう。そんな風に普段とは違う思考と食の摂り方になっていきます。現代生活の中では気付く事が難しい習慣に改めて気づかされる。習慣を改めて見直すのではなく、そういった環境に身を置く事で必然に適応していく。気付きを気持ちよく感じる瞬間でもあります。
遠くから見る山はどれも同じ様な顔をしています。その麓まで行くと目の前には細い一本道しかありません。その入り口はみな独特で個性があります。禿げた道、看板だらけの道、道なき道。ある山の入口には大きな木々が騒めいています。ようこそと迎え入れられているのか、それとも警鐘なのか知るところではありません。兎に角、大きな木が鬱蒼と生い茂っています。登山道入り口から一、二時間は太く固い根が隆々と剥き出し足の踏み場になってくれています。いったいいつからここに居るんだろう。そう思わされる老木や苔が生い茂る道が続きます。そこから段々と木々は低くなり、大きな岩が足場になっていきます。朝露で濡れたその岩肌は登山者の強靭な靴により研磨され黒く光っています。大きな岩を手で掴み、力いっぱい足を踏ん張って、ぐうん、と岩を蹴飛ばしひとつひとつ、またひとつと岩を超えていきます。森林限界まで来るとバックパックと背中の間にかいた汗が急にひんやりと冷たくなります。山肌をつたう風や雲がゆるやかに侵入してきます。湯気が出るほど熱くなった身体を通り抜けて一気に冷却してくれるのです。打って変わって今度は寒くなります。急いで長袖を出して着用します。山頂までもう少しです。雲が稜線を撫でるのが見えます。足元は砂利や拳大の石などになります。噴火の際に出来た赤や黒の軽石も多くあります。石には細かく小さな穴が開いていて珊瑚の様にも見えます。
景色は見えないけれど先に到着した登山者たちの逞しい声が聞こえてきます。頂きまであと少し。太陽に近くなったこと。その距離感を鋭利に射す陽の強さで計ることができます。肩が重い荷物で固くなり脹脛の筋が張っています。息は浅くなり肺に溜まる空気も少なくなっています。そんな時、私は無性に走り出したくなります。辛いのに猛烈に駆け出したくなります。そしていてもたってもいられず駆け上ってしまいます。風の音や鳥のさえずり、友人の声、今まで聞こえていた音が一気に後ろの方へ去っていきます。
その時、私に聞こえているのは自分の心臓の音だけです。バックン、バックン、バックン。心臓が身体の隅々に血を送る音が自分自身から[#「自分自身から」に傍点]聞こえてくる。緊張やナーバスな時に聞こえる自分の心の音ではなく、それは自分の身体が、心臓が機能している時に聞こえる私自身の音。その時にしか聴く事の出来ない身体の音に私は生きていると実感することが出来る。この生きていると感じる事ができる体験が年収三倍を叶えるよりも、生きる心地三倍が山を登る理由になってしまったのです。
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