INTERVIEW We Work Here case #28 「人を活かすこと、それこそが私の天職」

みどり荘メンバーの土屋きみさんは、現在フードディレクターとしてフードプロダクトのブランディングやプロデュース、自身のフードユニットの活動をしています。エンターテイナーを志し、あらゆるエンターテイメントの中からなぜ「食」を選び、フードディレクターとして働き始めたのか。周囲の人々を巻き込み、自分が面白いと思う世界観へと導いていくきみさんにとって「働く」とは。
[ Interview / Text / Photo ] Yuko Nakayama
[ Edit ] Miho Koshiba, Moe IshibashI
2020. 11.11
「肩書きはフリーランスのフードディレクターです。主に食に関係するプロダクトや店舗、イベントのプロデュースやケータリングを手がけています。Farmers Marketのチームにも所属させてもらい、主にマーケットに出店いただくフードカートのブッキングなどを担当しています。コロナによって状況が変わる前はケータリングやイベントのプロデュースが多かったんですが、今は1つのブランドとじっくりと関わりながら、総合的にブランディングやブロデュースをする仕事が増えてきています。」
高校生の頃に両親の仕事の関係でアメリカで3年間過ごし、帰国後は大学に通いながらエンターテイナーになるための道を模索し始める。大学3年生になり周囲が就職活動をしている中、1年間の休学を選択し、ニューヨークに飛び立った。
「中学生の頃からヒップホップダンスだったり、吹奏楽だったり、とにかく目立つことやエンターテイメントが大好きでした。アメリカから帰国し、どんなエンタテイナーになろうかと思いながら、演劇や映画、料理教室、陶芸、油絵などエンターテイメントに思い当たるものを全てトライしましたけど、『これだ』と思えるものがなかなか見つかりませんでした。周囲が就職活動をし始めている中、ふと『エンターテイナーと言えばニューヨークではないか?』という考えになり、大学を1年休学。日本のインターン斡旋会社が紹介してくれたニューヨークの食専門PRのインターンでフードライターとして働くことになりました。」
「インターンをしている以外の時間はクラブに行ったりやミュージカルを見たりする中で、照明や舞台道具などの裏方にも目線を向けて、自分がエンターテイメントのどの部分に関わっていきたいのかを模索していました。インターンも終わりに近づいた頃、インターン先でお世話になっていたカズコさんにこう話しかけられたんです。『きみちゃん、あなたのニューヨークでの行きたいところのリストを開けてみなさい。自分が行きたい演劇リストよりも食べたい物のリストの方が多いでしょう。きみちゃんは食が一番好きに決まってるということよ。食こそが、耳も目も鼻も季節も空間も全部が統合し、追求されたエンターテイメントの頂点なのよ』と。カズコさんの言葉をきっかけに、自分の中で将来の道が開いていく感覚が芽生え、食の仕事で生きていこうと決めました。」
ニューヨークから帰国後、友人の紹介で246COMMON(現在のCOMMUNE)でフードカートを構えていたBROOKLYN RIBBON FRIES(以降B.R.F)に出会い、アルバイトを経て社員としてB.R.FジンジャーシロップのPR&セールスとして3年間働くことになる。
「大学を卒業してすぐ社員になってからは、お店のシフトには入らず、自社プロダクトのジンジャーシロップをどう世の中に広げて、販売していくかという任務を託していただきました。B.R.Fの当時の代表でもあり私の人生の師匠でもあるイモトさんから『週に1回のミーティング以外は自由。B.R.Fジンジャーシロップの原価を考えて、何本売ったら自分の給料になるか考えて働いてください。よろしく!』と言われて、それからシロップを背負い、片っ端から飲食店に営業したり、青山ファーマーズマーケットでも販売したりしました。実の兄のように慕っていたB.R.Fの人たちと一緒に常にシロップを持ち歩いて試して、王将に行って醤油にシロップを垂らしてみたり、すき家の牛丼にはシロップは合わないとか、どうやったらシロップが売れるのだろうかと考え続けた日々は、しんどかったですがとても楽しかったです。」
「今振り返ると、その時期に今もお付き合いのある飲食店の方々との繋がりができたり、ブランドを作るということがどういうことかという基礎をイモトさんに叩き込まれたんだと思います。PRとしてSNSやメディアに発信する時の1個1個の言葉遣いや、外から人がどのようにブランドを見ているのかなどを懇切丁寧に教えてもらいました。放し飼いにされながらもちゃんとイモトさんや周囲の人々は自分のことを見ていてくれたので、当時は皆さんに置いて行かれないように馬車馬のように全力疾走していました。」

駒沢大学にB.R.Fの店舗がオープンした年にB.R.Fから離れ、それ以降は新宿のNEWoManの屋上で「学び」をテーマにした都市型マルシェ「The CAMPus(ザ・キャンパス)」の運営ディレクターとして携わる。イベンターとしてイベントを作るノウハウを学び、イベント関係者との関係を築いていく。
「半年間限定だった『The CAMPus(ザ・キャンパス)』の運営ディレクターを終え、イモトさんからのアドバイスもあり、まだまだ分からないことだらけでしたが、26歳で独立することにしました。これからどうしようかなと思っていた矢先、公私共にお世話になっていたメディアサーフにも声をかけてもらい、青山Farmers Marketの外部メンバーとしてプロジェクトに参加することになりました。また、B.R.FやThe CAMPus時代に出会った大人たちがケータリング未経験者の私に『ケータリングのお仕事があるけどやってみないか』と連絡をくれて、やったことがない仕事でしたがまずは一生懸命に頑張ってみようと思いました。イベントに合わせて、どんな状況で食べて、どんな大きさだと食べやすくて、どんな味のだと喜んでもらえるか、をイメージしながら、献立とコーディネーションを考え、企画書に落とし込んでいきました。クライアントからGOサインをもらえたら、それを作ってくれる料理人を探して、ケータリングを形にしていく。そうやって、1つ1つケータリングの実績を作っていったら、段々と全く知らない人からもケータリングの仕事をもらえるようになりました。」
「バレンタインのランチイベントの仕事の依頼が来た時は、ピンク色の食材で作った料理を提案しました。ルビーカカオのチョコレートドーナツやラズベリーのドリンク、ピンクのジャガイモを使ったポテトチップス、ピンクの大根の炊き込みご飯など、とにかく全てピンクの献立にこだわりました。着色料を入れてしまえば誰でもできるので面白くないので、基本は全て無添加無着色で、自然にある色でどれだけ面白いものを作れるかを試しました。」


NEW YOLK 世界一食べづらいホットドッグ
コロナ以降は食のプロダクトのブランディングやプロデュース、自身が手がけるコンテンツ作りに力を入れている。1つはNEW YOLKというユニット、もう一つは鶏革命団というチーム。最近クラウドファンディングを実施した鶏革命団にはどんなストーリーがあったのか。
「NEW YOLKは私の思想がどっぷりと入ったフードエンターテイメントユニットです。『食こそが最高のエンターテイメント』というキャッチコピーのもと、パートナーの鳥居くんと活動していて、自分たちが面白いと思ったものを好き勝手にプロダクトにしたり、たまにプロデュースの仕事をさせていただいたりしています。フェスやイベントに出店するときは、どんな料理にも目玉焼きを載せるというのがコンセプトで、世界一食べづらいホットドッグが一番のヒット商品です。アーティストの友達とコラボして色々な目玉焼きグッズを作ったり、仲間の大工には出店用の什器を作ってもらったりしながら、自分の周りの面白そうな人を巻き込んでいます。」
「NEW YOLKの活動で目玉焼きを大量に焼いているうちに、だんだんと卵にこだわりたいと思うようになり、4年ほど前に埼玉にあるぶくぶく農園という養鶏場を訪れました。そこで真摯に鶏を育てている養鶏家のハナちゃんと出会い、意気投合。ハナちゃんより『卵を産まなくなった鶏たちの行き場がなく困っている』と相談を受けことをきっかけに鶏革命団は結成しました。
実は、鶏は身体の仕組み上、生後1年半で卵を産まなくなり、それが養鶏としての鶏の引退時期になるのですが、その時期の鶏のお肉はとても硬く、生肉としての販売がとっても難しい。ビジネスの効率化だけを考えると廃棄してしまう養鶏場が多いそうなのですが、ハナちゃんはそれを望んでおらず、最後まで鶏に感謝しながら美味しくいただける、何か別の方法を探したい、という内容。私たちが普段食べている鶏肉は、生後約2ヶ月の食肉用に育てられた鶏肉なんだという話を聞いた時は目から鱗でした。
生肉としての販売が難しいなら、美味しい料理にすることで付加価値をつけて販売しよう!と、いろんな料理人にお願いをして試作を続け、引退鶏だからこそ作ることができる美味しいレシピが続々と完成していきました。これまでは鶏の引退時期と合わせてイベントに出店をしていましたが、ハナちゃんの養鶏の規模も大きくなってきたので、遂に商品化という話になり、まずは第1弾として「黄金の鶏ガラスープ」を開発し、最近これでクラウドファンディングをしていました。年明けにオンラインで発売を開始する予定です。第2弾には鶏肉のミンチを使ったキーマカレーレトルトの発売を予定しており、準備も着々と進めているところです。」
「鶏革命団のPRをしていくにあたって、まずは食べて美味しいと思ってもらえることが1番なので、「サスティナブル」や「フードロス」など、良いことしているという社会派のイメージが先行してしまわないように気をつけました。食べ物なのだから、美味しくなければ意味がない。その上で良いこともやっているという流れでないと、物として正常の評価を得られないのではないか。そう考えていたので、鶏革命団をブランディングをする際は、アプローチに気をつけてポップで明るく陽気なチキン屋さんのブランディングを前面に押し出しました。」

鶏革命団第一弾商品「鶏ガラスープ」
きみさんにとって、働くとは。
「自分が仕事をしている、していない関係なく、人と食べ物を自然と繋いでいくことが好きです。自分がやっていて好きだと思えることが、自分の人生の大半の時間を占めていて、それがお金に変わっていくことが、私にとっての働くです。」
「ヨーロッパでは、プロカメラマンアシスタントという仕事が存在していると聞いたことがあります。日本だとカメラマンアシスタントと言うと、プロのカメラマンになるための前段な気がしますが、決してそういう意味ではない。でもよくよく考えてみると、その考え方は人間界では当たり前のことで、例えば目立つところにいるのが得意な人もいれば、その子を支えるキャラクターも必要。私は自分が出来ることを一生懸命にやって、出来ないことは出来る人に振り分けて行き、それぞれが得意なことことだけで生きていける状況が作れたら、世の中最高だなという感覚が根底にあります。食の世界にもエンターテイナーがたくさんいて、例えば、料理人も何かに特化しているアーティストであり、彼らが出来ないPRやブランディングなどをちゃんと才能を理解した上でプロデュースしてあげることが、自分にとって天職かなと思っています。以前は自分がスポットライトを浴びる方が楽しいと思っていましたが、食を通じて人を楽しませる一員として、人の世話をすることも好きなんだと気づくことができました。」

最後にみどり荘とは?
「雑談があるとてもいい場所だと思っています。この間永田町のコミュニティランチのケータリングを手伝わせてもらった時に、代わる代わるメンバーの方がランチを食べにやって来て、みんなでお喋りしている様子を見ていたら、みどり荘はちゃんと出会いのある場所だなと感じました。大学生の時から、みどり荘やCOMMUNE界隈の大人たちに本当によくしてもらい、皆さんのおかげで今の私があると言っても過言では無いくらい。だからこそ、みどり荘で人に会うと、家族みたいにリラックスできる。一方でそのかっこいい大人たちが現役バリバリで活躍している姿をを見ると背筋が伸びて、自分も頑張らなければいけないと思わせてくれる場所でもあります。」
KImi Tsuchiya Freelance food director / NEW YOLK / 鶏革命団
「食とその周りに集まる人」を繋いで行くことを一生の仕事にしたいという志のもと、フリーランスのフードディレクターとして活動中。飲食プロダクトの開発、飲食店舗のブランディングプロデュース、食に関わるイベントオーガナイズ等を主に行う。
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