COLUMN #50 awareness

Topic: ColumnWritten by Tamao Yamada
2022/7/22
#50 awareness

源実朝が謳った詩、『大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも』。

お飾りの将軍として空しい日々を過ごした孤独な将軍が、哀しさなどの情景を謳ったものだと解説されていることが多い詩ですが、ある作家が、「彼は、そこにあった荒々しい波の情景をただ詠みたかっただけなのではないか」と解説していて、私はこの考えに妙に納得してしまいました。「ただそこに、そんな瞬間が在った」って、そんな風に物事を切り取るということが、今の時代どれだけ難しく、どんなに大切なことだろうよ、と。

ここで、1000年前の時代を生きた将軍から私が学んだことは、「在ること」を認識することが、自分の「現在地」を色濃く意識させてくれるヒントになるのではないかということ。そういう日々の出来事を記録しておくことが、世の中の物事の速度と自分を接続させるための良い媒体になるのではないかということです。

今はスマホの電源を入れればどんな情報だって手に入る時代。受動的であっても選択・判断する瞬間が増え、それは私たちに解釈の余地を与えないスピード感で迫ってきます。キャッチーなものがウケてはすぐに消費され、WEBで何かを検索すれば、欲しいものはいくらでも手に入り、望む何者にでもなれると思ってしまう。そうやって欲に煽られながら生きる中では、自分自身を認識する時間すら見失ってしまう人も多いように思います。

その生きづらさは、発信することが簡単になった状況でも発生するもので、TwitterInstagramでは、自分のためにと記録したはずの言葉も、無意識レベルで誰かに見られることを前提とした内容にすり替わっています。そんなとき、頼朝の詩というのは、現代においての日記のような立ち位置にあるのではないかと感じるのです。

確かに自分の日記を読み返してみると、誰かに伝えたいことよりも、小さくて忘れ去られていくようなことばかり書き記しています。駅のホームで友達とすれ違ったこととか、子どもの誕生日にケーキを買っていくお父さんをみかけたこと、久しぶりにかいだ雨の懐かしい匂いとか。個人的すぎるちっぽけな話で申し訳ないですが、こういった、意味や有用性を選択することでは得られなかった体験や感情の積み重ねって大きいんじゃないかなと思います。どんなすごい人だって、肩書きや役割だけではその人らしさを語ることができないように、大きな選択だけでなく小さな選択や日々の出来事の連続が自分を形作っているし、そこには純度の高い自分の言葉が必要なんじゃないかって。そうやって、能動的に意味づけしないことだってあっていいんじゃないかなって。

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