COLUMN #166 味わう

数年前からアートコミュニケータとしてVTS (visual thinking strategy = 対話型鑑賞)のファシリテーターをするようになったのだが、毎回何気なく発していたフレーズ、「こちらの作品をまずよく味わってみてください」に対する鑑賞者(小学生)からの一言がきっかけだった。
「味わうってどういうこと?」
とりあえず友人の哲学対話に参加した時にテーマにしてもらい、様々な人の「味わう」を聞いてみた。とにかく興味深い「味わう」だらけだった。が、わたしにとって言葉というものはどこか抽象的で、その言葉が意味するところが感覚的に腹落ちしなかった。例えば「りんご」と聞いてそれぞれが想像するりんごが違うように、言葉は他人とコミュニケーションを取るために削ぎ落とされた最大公約数みたいな側面があると思う。
そこで、自分にとっての味わうを体感するためにその字の如く、ファスティング(断食)をすることにした。3日間の断食 (酵素ドリンクは飲んでいたが) を終えていよいよ食べ物 (大根の細切りを昆布で煮たものと潰した梅干し) を身体に入れるとき、びっくりするくらい感覚が鋭くなっていた。まず嗅覚が反応して、身体全体に信号を送っている感じ。口に入れた時、身体の全感覚が、全意識が集中して、「これが味わうってことかも!」と感じた。言葉と感覚が結びついた瞬間だった。
わたしの場合、味わうためには意識も身体の感覚も対象に委ねながらも集中する必要があるのかもしれない。とはいっても、断食という特殊な状態ではなく、もう少し普通の状態で味わってみたい。そして味覚の「味わう」を再確認したところで他の感覚の「味わう」も試してみたくなり。次は茶道を始めることにした。
茶道には全てが詰まっているだとか、総合芸術だとか色々言われているけれど、感覚を鍛える、とも聞いたから。ゼロからのスタート、とにかくその場で起きていることを一つも逃すまいと必死で観察することから始まった。これはこれで感覚を総動員してはいるのだが、全くもって味わうどころではない。そこから1年が過ぎ、身体の動きが自然に身についてきた頃、ふとした瞬間にふっと「味わう」がやってくるようになった。それは断食の時のような圧倒的なものではなくて、もう少しさりげないもの。
様々な「味わう」を、分かった気がしてまた分からなくなる、を繰り返し、ほんの少しずつ、じわりじわりと腹に落ちてきている。いつか腹の底まで落ちきったら、どんなふうに感じるのだろう。
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