INTERVIEW case#12 We Work Here “まっすぐ正面突破することでしか、物事って解決しないといつも思っている

Topic: InterviewWritten by Miho Koshiba, Yuko Nakayama, At MIDORI.so Nagatacho
2019/4/19
Aya Aso

ホテルというカテゴリーに捉われず、利用シーンや時代、その土地の性質などを踏まえ、トータルにホテルをプロデュースし、そこで働く人々のオペレーションも考えるライフスタイルアセットのクリエイターという仕事。ピアニストとしての人生を歩んでいたはずの彼女が、ホテルのフロントの仕事をきっかけになぜホテル業界にのめり込んでいったのか。そして、ライフスタイルアセットの仕事に到達するまでの経緯と彼女の中に宿る働くことへの姿勢と信念。数々のホテルが存在する中、日本において今後どういったホテルを残していくべきなのか。永田町メンバーSAVVY Collectiveの浅生亜也さんにインタビューした。

Text & PhotoYuko Nakayama

04/19/2018


浅生「もともとホテルや旅館の再生を手がけていたんだけれども、これまではゼロから開発するという機会に恵まれる時代ではなかった。今はホテルの需要が高まっているから、新しいものをゼロから作り上げても、市場に求められる時代にやっとなったなと」

昭和の超音楽英才教育を受け、ピアニストになるようにしか育てられてこなかったと言う。幼少期はラテンの国ブラジルで過ごし、高校はアメリカ・カンザスの公立学校。大学は南カリフォルニア大学のピアノ科を専攻。

浅生「大学を卒業して、ピアニストとして演奏活動をするんだけど、練習だけの毎日が続き、気づいたら誰とも話さない日があって、正直つまらなかった。ある時、新聞の広告を見ていたら、ダウンタウンのシェラトンホテルで、バイリンガル募集という求人があった。しかも、フロントのアルバイト。素敵なホテルだった。全室にバトラーがいるホテル。楽しくって、ホテルの世界にのめりこんでいった。でも、アメリカって大学を出たら、専攻学部でほぼ将来確定してしまうじゃない?例えば、ピアノ科を出て銀行マンにはなれない。私はピアノ科しか出てないから、頭打ちなんだよね。さらにホテル学科とかを出ていないと、ホテル業界では上のポジションには就けない。『ああ、なるほど』と。アメリカの学歴社会はすごく厳しい」

浅生「そのままホテルにいたかったけど、一方で日本にも帰りたかった。20年も離れていたから真の日本人になりたかったの。変な話だけどすごく日本人に憧れていた。大学時代は、日本がバブル真っ只中で、日本から来た留学生がキラキラして見えた。自分は、日本人だけど海外生活が長くてどこか日本人っぽくなかったし、日本のことを何も知らないのに日本人って言われるのが恥ずかしかった。帰りたいと思っていたらチャンスは巡ってくるもので、空港の近くにあった同系列のホテルの総支配人が、日本のディズニーランドの隣にあるシェラトン・グランデの総支配人に就任するという噂を聞きつけたの。それまで全くその人に会ったこともなかったけれども、有給を取って面会に行って、『私を日本に連れて帰って』と正面から思いを伝えてみたの。そして20年ぶりの帰国のきっかけを手に入れた。」

Team photo

幸運にも総支配人と共に日本に帰ることができた彼女は、舞浜のシェラトン・グランデのマーケティングを担当することになる。

浅生「総支配人に付いていろいろな会議に出るんだけど、何を言っているのかわからなかった。言葉の問題もあったかもしれないけど、数字が読めなかった。音符しか勉強してこなかったから() たった一軒のホテルだけどお金がどう回っているのかすら分かっていなかった。これじゃいけないなと思い、一念発起して会計の勉強をしてアメリカのCPA(公認会計士)の資格を取った。その頃は日本ではUSCPAを受験するのがブームで、運がよかったのかUSCPA大量採用の時代だったの。金融の世界で国際会計の導入があったから、英語が出来て資格があって監査の現場で働ける人っていうのは意外と引っ張りだこで、試験が受かった翌日には就職が決まっていた」

浅生「外資の金融機関の監査をやって、でも監査って1年やったら仕事が一巡して、2年目は同じことの繰り返し。それで『もういいかな』と。やっぱりホテルがよかった。でもこのまま戻ると、また同じことの繰り返しだから、もう少し違う視点からホテルに関わりたいと思ってなんとなく探していた。でも、それに経営にちかいところで勉強をしたいなと思っていたタイミングで、PwCのコンサルチームに転職した。BPOとかBPRとか、業務プロセス系のコンサルをやったんだけれどもそれがすごく面白かった。」

大学の友人を通じてリクルートの創始者である江副さんを紹介され、スペースデザインに入り、サービスオフィス・サービスアパートの開発・運営に携わる。そこでの仕事が今のライフスタイルアセットの仕事に通じていると彼女は語る。その後はイシン・ホテルズ・グループで、マーケティングやブランディングを手がける。

浅生「ホテルを買うのはいいんだけど、買ったホテルを放ったらかしにしている。もしくは、ちょっとお化粧直しして綺麗にしておけば良いという状況だった。人がやるビジネスなので、もう少し働いている人に寄り添ったり、お客さんが相手なのでゲストに寄り添った商品作りをしなければと思った。約30軒まで増えていったイシンのマーケティングやブランディングの担当になって、ブランドを作るということを初めて手がけてみて、ワクワクするように人が働く姿を考えてみたり、それを目的にお客さんが来るというモチベーションを想像したり楽しかった」

浅生「ただ、私がやっていたことが上手くいったこともあるけれど、失敗したこともある。でも正直上手くいったことがどうして上手くいったのかわからないし、失敗したことがどうして失敗したかがわからなかった。次も偶然上手くいくかもしれない。この精度をもう少し高めたかった。だから、もう一回キャリアをストップして、今度はビジネススクールに行った。ウェールズ大学日本校のMBAに通い始めて、日本語で授業を受け修士論文を書く。実は日本語のトレーニングにもなって一石二鳥だった。それに、私自身に日本の学校に行った経験が殆どなかったから学校を通じた人脈ネットワークがなかった。仲間を作るということも重なり3つお得だった。しかも成功や失敗を全部体験した後に勉強したから、『ああ、なるほど』って。受講しながら頭の中がぐるぐる回転していた」

そして、長野にある野尻湖のホテル再生の話をきっかけに「AGORA HOSPITALITIES」という会社を1人で立ち上げた。

浅生「会社を作って取り組んだのが、もともとプリンスホテルだった野尻湖ホテルエルボスコの再生。清田清という建築家が作ったマスターピースと言われていて、素晴らしい建築。ただ土地柄、年間運営することができず、夏の1ヶ月しかまともに儲からない。あとの時期は全部赤字。それを補うために、別のシーズンがピークになる地域のホテルを探して、真逆の冬がピークだった奥志賀高原というスキー場にあるホテル運営で売上の凸凹を相殺するという方法をとった。日本って地域によってピークが順に巡ってくるじゃない?暑い寒いだけでなく、お祭りとかいろいろな行事なんかでピーク時が多様。それをパズルのように組み合わせていく。それによって1つのアライアンスを作るという大きなビジョンを持っていた。そうでも考えなかったら、このホテルは明日にでも死ぬと思っていた。キャッシュの枯渇なんて何回もあった()

浅生「リーマンショックが起きて、リーマンから立ち直ったなと思ったら、地震が来た。その時は、もう会社を畳もうと思った。でも社員がいると、会社って早々に畳めないんだよ。それで取った策が「大船に乗ろう」と。ある上場会社の傘下に入った。そこに資金を調達、ホテルを買収して、2011年から2014年にかけて、売り上げ8倍、組織の規模も10倍にしていった。当初従業員は30人くらい。ホテルを増やしていく度に、100人増えて200人、300人増えてと。いきなり会社が大きくなる。突然100人増える社員を一つの会社にどうしてまとめていくか。ビジョン、ミッション、バリューの共有って世界に入ってくるんだよね。みんなをぎゅーっと引っ張っていかないといけない。それには教育による共有が全てだと思っている」

創業から10年を迎え、AGORA HOSPITALITIESの社長を退任。そして、SAVVY Collectiveを立ち上げる。その理由とは?

浅生「ホテルから幅広くライフスタイルやホスピタリティを考えていく会社を作りたいなと。本気でラグジュアリーホテルに取り組まなきゃいけないと思った。前から日本にラグジュアリーホテルが極端に少ないというのは、業界中が認識していた。まだ世界に誇れるホテル業界になっていない」

浅生「数を追い求めずクオリティを追い求めて、小さいながらに11個作ることにこだわろうと思って。あまり会社もホテルも大きくしないで、ずっとこだわり続ける。ありがたいことに案件のご紹介だけは毎日のようにある。その中で、この土地にそういうホテルがあることが日本において絶対に必要だと思えた時にしかやらない。最終的に廃墟同然になる、そういうものを作ってはいけない。少し前の日本にはそんな施設がたくさん残っていた。そうならないようにするために、例えばロングライフを考えた時に、それがホテルなのかレジデンスを兼ね備えたものなのか、滞在という言葉の境がすごく曖昧になって来ている今日、そういうことに対応できるように作っておくべきでないかと。まだ解を見つけられたわけじゃなく、どうあるべきなのかをずっと考えている」

SAVVY logo

SAVVYは英語で「精通した」という意味。自立したプロフェッショナルだけが集まる集団になろうというのが由来。これまで、リーダーとしてその立場を全うしてきた浅生さん。これまで様々な景色をみてきた彼女にとって働くとは何か?

浅生「充実したライフスタイルを過ごすための日常かな。日常なんだよね。仕事は単なる日常。そのゴールは充実したライフスタイル」

仕事をする上で大切にしていることは?

浅生「今でもAGORA HOSPITALITIESのホームページのバリューに載っているのが、私が基本にしているバリュー。私自身が大事にしているのは、仕事って必ず相手がいることなのでスピードと精度。そして、人と仕事をするという意味では、誠実さや正直さ、まっすぐ向き合うこととか、そういうのが一番大事。色々なことを経験してきたけれど、まっすぐ正面突破することでしか、物事って解決しないといつも思っている。何か起こったら余計なことを考えないで、まずまっすぐ真正面から物を考える」

Aya1

これからしていきたいことは?

浅生50歳を過ぎて、いろいろな人とお付き合いして考えるようになったのは、これまで人にお世話になっていることが多かったから、当たり前のことなんだけどもっと人のためにできるお返しを考えよう思った。人や物を紹介されるのってすごく多かったんだけど、自分から同じようにかつ自主的にそれができていなかった。忙しいな、フォローできないなっていろんなちっぽけな理由からしてなかったんだけど、なるべく意識的にできることを見つけていこうと。そして後進に何かを残すことも。自分の時間が100パーセントあったら、コアの仕事を70パーセント、残りの30パーセントは後進や業界、世の中に残していく「何か」を手掛けようと心がけている。それがお金になるかならないかはどうでもいい話。その1つが、WiT Japan & North Asiaというトラベル業界とテクノロジーのカンファレンスの主催。もう1つは、先日スタートしたAXIA-Ladies in Hospitalityというホテル業界の女性ホテリエールに成長の場を提供して、彼女たちをキラキラさせる目的で作った任意団体。それから学生とかに向けて頼まれる講演とか講義とか。これはライフワークとして断らないようにしている」

FUTURE DESKS

みどり荘とは?

浅生「今は1人じゃないけど、創業当初1人で働いているのに、ここにはいつも人の気配がある。ちょっと通り過ぎるときに挨拶をしたり、目があったり、互いに話しかける。大きな会社でいうと、違う部署の人にちょっと声をかけるって感じかな?そういうのができるのは、1人の会社なのにいいなあって。ここが単に鍵をガチャって開けて入る1人のオフィスだったら嫌だなって思う。そういうオフィスってわざわざいらない。そうじゃなくて戻れるところがあって、そこには人がいるから、ここはいいなって気に入ってる」


AYA ASO

SAVVY Collective, Inc.

シェラトン・グランデ・ロサンゼルス・ホテル・シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルでホテルの現場業務に従事。一度ホテル業界を離れ、監査法人に入所。監査法人トーマツ、PwCBPO、中央青山監査法人で、会計監査及び業務プロセスコンサルティングに従事。その後、スペースデザインで国内サービスアパートメントの開発や運営などを経て、イシン・ホテルズ・グループに入社。20軒以上のホテルを取得及びオペレーション部門を管轄する本部機能に従事。2007年同社退社後、独立しアゴーラ・ホスピタリティーズを創業。ホテルから旅館など国内13施設のホテル・旅館を展開。アゴーラ創業から10年目を迎えた20173月、同社を後進に託し退任。2017SAVVY Collectiveを創業。ラグジュアリー&ライフスタイルを志向したホテルを開発およびマネジメントを手がける。

https://www.savvycollective.jp/



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