COLUMN #67 out of curiosity

志村不動産です。2001年、23歳の青年志村は専門を卒業し、フリーターとなり、パチンコ店、本屋など、祖師谷商店街のあらゆるバイトを転々としていた。バンド活動は上手く行かず、髪の毛も元気が無くなる一方で、おまけに、大卒の友人たちが揃って就職し、当時の彼女は広告代理店の媒体部で立派なOLへと脱皮してしまった。専門の同期は入社2年目を迎え、IMAGICAやD&DEPARTMENTなどで頭角を表し、僕は焦りを感じていた。
バンドよりも、そのフライヤーの方がまだ人気で、友人主催の劇団用などをよく頼まれた。当時のバイブルは岡本仁さんが手がけた、マガジンハウスのリラックスという雑誌で、その頃、渋谷のパルコギャラリーでジェフ・マクフェトリッジの個展があり、媒体部をきどった彼女と一緒にいった。当時の僕は「これだ!!」と感銘を受け、「かっこいい!」と感動した。
「グラフィックデザイナーになる!」と宣言。

とはいえ、イラストレータなど触ったこともなく、翌日、家にあるアプティバにむりくりインストールして、バイト先の本屋で教本をいくつか拝借してきた。それと同時にクリエイターっぽい服とカバンを成城のジーンズメイトで購入し、写真館でそれっぽい証明写真を撮って履歴書を大量につくった。
就職困難期で、どこもかしこも未経験者を迎え入れてくれるところは無く、行きついた先は桜丘町にある雑居(すぎる)ビルの7階の制作会社だ。エレベータは6階までしか無く、そこにはファッションヘルスがあり、消毒液と石鹸、タバコの匂いがたちこめていた。並べられている、セクシーなサムネール写真を横目に階段を上がり鉄扉を開けると、雑多(すぎる)事務所にマックが数台、書類やエロ本などが散乱していた。奥の方から、若かりし頃のルー大柴さんのような風貌で元気ムンムンな社長が現れ「君、イラストレータはできるか?」と聞かれたので、「できます!」と元気よく嘘をついた。月給15万円、福利厚生、交通費はないが、やっと採用された!本当に嬉しかった。井の頭線までの道のりを歩きながら、父に報告、僕は涙をぬぐいながら喜んだのを、今でも忘れない。
家に帰るなり朝から朝まで、寝ずにイラストレータを覚えた。初出勤、社長が持ってくる学校案内の仕事や、店舗のチラシなどをサクサクつくった。社長はだいたい毎日22時くらいに酔っぱらって戻ってきて、修正を渡してくる、僕はその修正を朝7時までに終わらせて、ソファで寝ている社長に戻す。社長はすぐに出かけて行く。その後、僕はパイプ椅子を並べて仮眠して、起きたら他の仕事をしながら社長の戻りを待つ。要するに帰れない。というか、いつ帰っていいのかがわからない。

ある日、社長は僕を新宿2丁目に連れて行った。ニューハーフバーなるところに初めて行き、緊張する僕にママが優しく接してくれた。ママは社長のパートナーで、しかも、お店を拡張してショーパブをつくる計画があり、僕はその担当に任命された。それから、桜丘町と新宿2丁目を往復する日々が始まった。現場では、内装業者さんとの打合せや、ソファの仕入れ、ショーのための照明機器を選定、天井にアンカーを打ち付けたり、鉄パイプをサンダーで切断したり、壁にペンキを塗って、ネズミを退治したり。お店が仕上がってきたころ、どこからか集まってきた怪しいお姉さんたちが勢ぞろいした。PV撮影をしたり、ショーの内容に合わせて照明を操作したり。
毎朝、伊勢丹のオープンに並び、店員さんにお辞儀されながら入店、トイレに直行。格式が高い便器が僕を癒してくれた。夜はボーイを任され、お姉さんたちの接客を初めて目の当たりにした。薄明かりのなか、男性客を誘惑しながら妖艶な笑みを浮かべる。その光景がとても奇麗に映った。まさに、水を得た魚のように、彼女たちの生きるべき世界が広がっていた。僕はシャンパンを運び、お客さまにいじられ、小ばかにされていた。昼間はというと、相変わらず、学校案内や店舗のチラシなどをサクサクつくっていたが。
ふと、思った。
僕はジェフ・マクフェトリッジに近づけているのだろうか。
つづく
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