COLUMN #213 繋がりは必要か

Topic: ColumnWritten by ai yagishita
2025/12/5
213

私がいま住むこのまちは、独自の生態系を遂げたガラパゴスのようだ。建物同士が物理的に近く密集しており、ご近所付き合いも必然的に生まれる。路地裏を歩けば必ず誰かとすれ違い、挨拶が交わされる。全体に下町特有のしっとりとした湿度と程よいあたたかさをまとった空気が漂っている。


ギャラリーやカフェ、本屋や銭湯、けん玉、ピンポン。多様な小さな拠点が点在し、そして何よりもコミュニティ色が濃い。面白いと思うことを実験的に形にし、誰よりもひそかに目立ちたい人たちがまちに吸い寄せられてくる。そのぶん出会いや別れも多く、気づけば去っていく人も少なくない。


繋がりたくなくとも、暮らしているだけで繋がってしまうのがこのまちの性である。そんな日常の往復のなかで、ふと窒息しそうになることがある。閉鎖感や時間がいつの間にか溶けていくような疲労感。もう誰も私に構うなと吐き捨てたくなる瞬間がある。繋がりは果たして必要なのか。心地よい距離とはどこにあるのだろう。


先日、初めて北海道を訪れたときのこと。そのスケールの違いにただただ圧倒された。大地は広く建物と建物のあいだには十分な空白があり、すれ違う人との間にも、やさしい風のような距離がそこにあったのを感じた。


帰ってからその話を知人にしたらこう教えてくれた。
「北海道の人はね、日常の距離が遠いぶん、お別れのときはハグをするんだよ」と。もちろん地域による差はあるのだろうけど、その距離感の話が妙に印象に残った。この「距離の感覚」は、単なる空間的条件ではなく、文化的学習によって形成されるものなのか。


文化人類学者エドワード・T・ホールは『かくれた次元(The Hidden Dimension)』において、人間がどの程度の距離を「快」と感じるかは生得的なものではなく、文化に内在する行動体系の一部であると指摘した。彼はこれを「プロクセミックス(proxemics)」すなわち「空間行動学」と呼び、距離の取り方そのものが無意識下でのコミュニケーションの形式であると述べている。


「空間の使い方は、文化が語るもうひとつの言語である。」つまり、近さも遠さもどちらが良い悪いということではなく、その背景のなかで意味をもつ。ならば、私たちがいま感じる「距離の心地よさ」や「繋がりの息苦しさ」も、特定の土地や共同体が育んできた無言のコードの中に位置づけられているのだろう。


繋がりというのは、単に他者と交わることではなく、自分にとって自然と感じる距離をあらためて自覚することなのかもしれない。

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