COLUMN #210 散歩のすすめ

Topic: ColumnWritten by ayasa hashimoto
2025/11/14
210

散歩が好きだ。自宅のある集合住宅の中庭から、その周辺をその時々の気分で歩く。うちの集合住宅は築50年ほどで、いつもどこかをメンテナンスしている。その分、手入れが行き届いていて気持ちが良い。


思い返せば2020年の春、世界が未知のウイルスの脅威に包まれ始め、私の住む郊外の街ですら人影をあまり見られなくなった頃。私は持病のある同居の家族への感染が心配で、人と交わることを極端に減らしていた。そんな中、散歩が心身を健康に保つ秘訣だったように思う。


耳をすませば、鳥たちが色とりどりの声でにぎやかにさえずっている。日の当たる隅に目をやると、野良猫たちが退屈そうに日向ぼっこをしている。用水路を覗き込むと、餌を貰えると思った鯉と亀が、ディスタンスなんてお構いなしに我も我もと群がってくる。そこは通学路になっており、昔から小学生が給食で余ったパンをよくあげていた。桜の花びらを舞わせる、まだ少しひんやりとした風が額を撫でる。


人がいない通りでマスクを外し、大きく息を吸い込む。人間の姿は見えなくとも、動物や植物たちがにぎやかにそれぞれの春を遂行していることに、たくましさと羨ましさを覚えた。人間の世界がすべてではないのだ。豊かで健やかな自然が、こんなにもあふれている。


最近散歩をしていたら、集合住宅の植木に名札が付いていた。。「お、君はなんて名前?」と覗き込むたび、いつも見ていた木や花が、初めての顔を見せるようで胸が少し高鳴る。


「クスノキ」の名札を見上げ、ゆっくりと深呼吸をする。散歩をする前よりも軽い気持ちで立っている自分に気が付いた。そして名前を知ることで距離がぐっと縮まるのは、人も木も同じだと思った。


散歩道を歩くと、自然の息づかいに合わせて自分の呼吸も整っていくのがわかる。道端の小さな変化に目を留めるたび、胸の奥がほんのり動く。湿った空気は気付けば軽さを増し、冬の手前の冷たい空気が鼻の奥をすっと通り抜けていった。


散歩はちょっとした日常の中で、道端や動植物、空気の小さな変化に気づき心を動かす大切な時間だ。そんな些細な時間を味わいながら、今日も今日とて、歩いていく。

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