COLUMN #170 終わりではなく移ろいとして

Topic: ColumnWritten by Yuko Naito
2025/1/24
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大学の授業で華道を学ぶ機会があった。その授業は池坊(いけのぼう)という華道の流派をもとに、四季折々の花を使った作品制作や華道の歴史を学ぶ内容だった。

あるとき、先生が質問を受け付けたので、普段は発言などしない内気な私は恐る恐る手を挙げてこう言った。「私は花が好きです。歩いているとき、道端に咲いている花を見たり、その香りを楽しみながら四季の変化に気づくのが好きなんです。ただ、それと同時に悲しくもなります。だんだん枯れていく姿を見ると、死んでしまったかのような、哀愁が漂っているような気がします。先生はどのようにそれを捉えていますか。」

すると先生は「『枯れた花にも華がある』という言葉があります。まずその言葉をお伝えしたいです。」と言い、続けてこう語った。「落ち葉や枯れた花、私はどちらも好きです。見た目に映る形や鮮やかさといった美しさだけでなく、それぞれの草花が持つ命の輝きや、そこに美を見いだして生かすこと。それが華道なのです。」その言葉を聞いて、私は「花が枯れるのは死ではなく、その花におけるひとつの変化なのだろう」と思えるようになった。

以前、Village Hinoharaでご一緒した油画科の学生アーティストがいた。その方は油画だけでなく、動物の剥製を用いた作品も制作しており、若いながらも今後の活動がますます楽しみになる作家だった。彼女の作品を形作る思想が気になり、「なぜ剥製を作っているんですか。」と尋ねてみた。すると彼女はこう答えた。「私は、この世の中が輪廻転生のように全て循環していると思っているんです。この剥製たちはその過程の一部として存在していて、いずれは土に還るでしょう。ただ私は、その一瞬を少しだけ長く留めているだけなんです。」剥製は「死」や「ゴール」を意味すると考えていた私にとって、彼女の剥製に対する捉え方は大変興味深く、新鮮なものだった。

漠然と何かが終わることへの不安や、目の前のものの変化に怯えてしまうことがある。しかし、それを「終わり」ではなく「変化」として見てみると、世の中の数々のものが彩りを帯びたものに見えてくるように思える。そして、その考え方はきっと目に見えない財産となるだろう

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