COLUMN #163 美しい苦悩

現代社会はストレスや不快感、苦しみを遠ざけようとする傾向があるように感じます。僕は、ストレスに満ちた生活を避けたいと思いつつも、「不快アレルギー」とでも言うべき、何でもかんでもハラスメントとされるような風潮には少し違和感を覚えます。それでも、「耐えられないような辛い思いをして得られる何かがあるのか?」と問われると、正直疑問に感じる部分ももちろんあります。
そんなことを考えていた時、ある媒体で目にした「縄文土器は苦悩から生まれた産物だ」という一言に強く心惹かれました。それまで縄文土器は、アフリカの工芸品のような、ただのファンキーな工芸品だと思っていました。しかし、この一言をきっかけに、縄文時代への興味が芽生えました。
「類人猿と人間の中間のような存在」が縄文人だという勝手な思い込みは、縄文人の生活を調べるうちに一変しました。縄文時代は1万年以上も続き、興味深いことに、この長い歴史の中で「人と争うための武器」がほとんど見つかっていないのです。縄文人は定住していたものの農業を選ばず、自然の恵みに身を委ねて生きていました。土地の所有が争いを生むと考え、農地や区画を決めなかったと言われています。そして、食料が乏しくなっても、他者を襲うのではなく、耐え忍ぶ道を選んだのです。
この、耐え忍ぶ中で、縄文人は「祈り」という境地にたどり着きました。祈りが形となり、縄文土器の美しく荘厳な造形へと昇華されたのです。この純粋な祈りの強さ・美しさは、岡本太郎をはじめ、多くのアーティストにも影響を与えたのだと想像します。
弥生時代に入ると文化は大きく変化します。農地や区画という概念が生まれ、争いが広がる中で凝った造形があってもすぐに壊れてしまう為、道具やモノは合理的でシンプルな形へと変化しました。この変化は、利益や合理性を優先することで失われたものがあるという教訓のように思えます。
僕自身、年齢を重ねるにつれてストレスから逃げることが多くなり、時に大切なことを見失っているように感じます。そんな時こそ、縄文土器に象徴される「美しい苦悩」を思い出し、もう少し踏ん張ってみようと、そんな思いを抱きました。
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